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日本車椅子ソフトボール協会会長
髙山樹里さんにインタビュー

1996年のアトランタ五輪出場を果たし、続く2000年のシドニー五輪で銀メダル、04年のアテネ五輪で銅メダルを獲得と、ソフトボール日本代表のエースピッチャーとして活躍した髙山樹里さん。その後、ボブスレー競技でバンクーバーオリンピック出場を目指したのちにスケルトンに転向し、現在はナチュラル・リュージュのチームを結成して代表を務めながら自らも競技に出場している。さらに、2020年には日本車椅子ソフトボール協会会長に就任した。髙山さんに、車椅子ソフトボールとの出会いや、今後目指していることについて話を伺った。
髙山さんと車椅子ソフトボールの出会いは、ボブスレーの合宿先でのことがきっかけだった。
「2010年のバンクーバーオリンピックのころ、ボブスレーの合宿先だった北海道の北翔大学同窓会会長と出会ったことがきっかけです。会長が車椅子ソフトボールに関わっていて、お話しているなかで、『私、車椅子ソフトをやっているのだけど、どう?』とお話をいただきました。それまで障がい者スポーツをしっかり見たことがなかったのですが、こういう競技があって、自分がやっているソフトボールが車椅子に乗ってこういうふうにできるのだと知り、とても未来のある、魅力のある競技だと思いました。こうしたスポーツへの選択肢があることはよいことだと思います」

2020年に日本車椅子ソフトボール協会会長に就任した髙山さんだが、『会長』といっても仕事は何でもこなすそうだ。
「実際はまだ小さい団体なので、グラウンド整備や設営、運営など、全部何でもやります。会長っていう会長じゃない感じですかね。大会中はスコアを書いたりもしますし、何でもやります。ただ、大きくいえばやはり広報活動が多いと思います。オリンピックに出ていることもあるので、そこで関心を持ってくれるかたもいますから、そういう面で表舞台に出ていることは確かにあります。そこが一番、大きいと思います」

車椅子ソフトボールは、競技用の車椅子に乗り1チーム10人で試合を行う。基本的なルールは野球やソフトボールと同じで、屋外で行われる団体競技では数少ない障がい者スポーツだ。
「車椅子ソフトボールの魅力は、車椅子に乗ったらバリアフリーで、老若男女、健常者、障がい者問わず一緒に楽しめる競技であることです。『健常だったときは野球をやっていて、障がいができて球技を離れたけど、車椅子ソフトボールがあるからやりたい』というかたもいますし、『体験会で楽しかったのでやりたい』というかたもいます。ルールを知らなくても、やりながら覚えていくのもいいですし、目標を持ってやりたいっていうかたもいて、それでいいなと思っています。どんどん経験してもらって、その選択肢の1つになればいいなと思います。
大変なことは、練習や大会の会場を確保することですね。体育館ではバッドの使用が認められていないので、駐車場などの広い場所が必要ですが、車止めがあったり、砂利があったりすると難しい。また、車いすを漕げない土や人工芝も厳しいです」

東海地方の車椅子ソフトボールチーム、「東海UNITED DRAGONS」では、月に1、2回、土日のどちらかで合同練習をしている。また、協会主催の各大会や講習会に参加もしているそうだ。「東海UNITE
D DRAGONSのフェイスブックやインスタがあるので、それを見て来てくれたりするかたも多いですね」

現在、髙山さんがチーム代表兼選手となっているナチュラル・リュージュとは、山道を圧雪し水を撒いて自然に凍結したコース(氷上)を滑走しタイムを競う競技である。スケルトンを一緒にやっていたかたから声をかけられたのがきっかけだそうだ。「ナチュラル・リュージュはめちゃめちゃ大変です!14キロのソリを抱えて山を登るのですが、ソリを背負って獣道を歩いて、滑走してまた歩いての繰り返しです。1月にとにかく滑走練習して、2月にまさかの世界大会。当初は優しいコースだったのですが、氷が溶けて無理になり、急遽『3大厳しいコース』の1つに変更されました。
滑ったことがないのにいきなり、公式2本やって、『はい、出てください』と(笑)。でもボブスレーも車椅子ソフトボールもそうなのですが、本当にいろんなかたがいろんなチャンスをくださるので、できる限りのことをやっていきたいなと思っています。もちろんナチュラルだけじゃなくてチャンスがあればほかの車椅子のことでも、いろんなところに顔を出したいなと思っています」

この先目指していることや、取り組んでいきたいことについて次のように語ってくれた。
「協会側としては、普及活動にしてもパラリンピックに入ることが一番はやいなと思うのですが、なかなか世界で普及する難しさがあります。資金面など現実的な課題もありますが、特にオセアニアやヨーロッパなどでどうにか普及させて、パラの競技に入れることが大きな目標ですね。国内では各都道府県に車
椅子ソフトボールチームをつくることが目標です。現在は 県22チームですが、各都道府県にチームができれば日本で部分的にリーグができたり、スポーツに携わる機会が増えてきたりするので、いいなと思います」

なお、2023年5月には東日本大会、6月には西日本大会が予定されている。(詳細は日本車椅子ソフトボール協会の公式サイト)

※高山樹里の「高」ははしごだか

インタビュー 小林 景子

イオンモール鈴鹿「福祉の店パレット」元店長
小倉 健さんにインタビュー

イオン鈴鹿ショッピングセンターベルシティ(現 イオンモール鈴鹿)に、かつて「福祉の店パレット」という店舗が存在した。オープン当初から12年間、脳性麻痺による一種一級の障がいを持ちながら、店長として仕事に奮闘した小倉健さんに当時の話を伺った。

「中学生の頃から何度かショッピングセンターに行っていたのですが、こんなところで働けたらいいなぁと、思っていました」
話す相手の気持ちを和ませるような笑顔と、明るい語り口が印象的な小倉さんはそう語る。

小倉さんが生まれたのは1975年。脳性麻痺による障がいがあり、日常生活ではいろいろなサポートが必要で、小学校から高校までは三重県立城山養護学校(現 三重県立城山特別支援学校)で過ごした。高校3年生のときには進学や就職を見据えてさまざまな資格を取得したが、受け入れ体制を理由に大学から入学を断られたり、就職しようにも選択肢が見つからなかったりしたことから、将来を悲観的に見ていた時期もあったという。

このまま思い悩んでいてもだめだと感じていた小倉さんは、高校卒業後、三重県津市にあ

る身体障害者総合福祉センターの生活援助棟で生活を始める。「初めて親元を離れての生活だったので、すごく不安でした。でも、ちょうどこの年から重度障がい者を受け入れることがスタートしたのもあり、せっかくのチャンスなので、前向きに『行ってみよう』と思いました」生活援助棟で生活する間に、東京にある自立生活センター(障がい当事者が中心となり、自立生活を送る際の情報提供をしたり、介助者の派遣をしたりするところ)で研修を受けたり、人脈づくりのためにあらゆるところで名刺を配ったりもした。
「就職の斡旋はしてもらえないので、自分で企業まわりもしましたし、もう会う人会う人に配りました」。配った名刺は200枚以上。そうした行動をしているなかで、小倉さんに就職の話が舞い込んだ。

1996年にオープンしたイオン鈴鹿ショッピングセンター ベルシティ(当時)に、「福祉の店パレット」(三重県の社会福祉協議会が窓口となり、県内の作業所で製作された授産製品を委託販売する店)が店舗として置かれた。「店が入ることは決まっていたのですが、その店を仕切る店長がいないということでした。私の知り合いがその運営をするかたと知り合いだったこともあり、紹介を受けて店長をすることになりました」

「福祉の店パレット」で販売される授産製品は、三重県内から厳選された30ヵ所の福祉作業所で製作されたもので、生活雑貨や食品、革製品など約600アイテムが3.5坪の店内にところ狭しと並ぶ。「アイテムの販売ノウハウを全部自分でつくりあげました。プロモーションとかマーケティングとかも考え、営業していきました。

授産製品は一般的に、バザーなどでしか売らないじゃないですか。興味のある人とかボランティアさん以外の目に触れることがなかなかないですよね。それをショッピングセンターで展開することによって、一般のかたの目にも触れ
て、商品がお客様のなかに溶け込んで役立てたらそれが一番いいなと思いました」

ショッピングセンターのなかに構える店舗として、経営に妥協 はしなかった。ときには製品のレベルについて作業所と衝突したことも。試行錯誤し奮闘を続けた結果、10年間で売り上げは約1300万円に。「そんな額の補助金、取れないじゃない?(笑)。だから、『売って稼がなきゃダメだよ』って言いました。そのために『これはちょっと』と思う製品には、『こんなん売れるか!』とはっきり言って差し替えをお願いすることもありました(笑)。『作れるはずだ』と励ましながら。最初は衝突もありましたが甘えていたら結局同じ。実際、作れましたからね」
売り上げの8割は仕入れ先の作業所に入る。小倉さんの時給は当時300円。仕事そのものはほかの専門店と変わらない。
「それなのに、『これかい!』って(笑)。でも、こういう現状があることは世に出すべきだと思いましたし、私にしか訴えることができないという思いもありました」

仕事を初めてから2年後、CS委員(お客様満足)も務めた。これは自分の店舗だけではなくショッピングセンター全体としてのサービス改善などを目的としたもので、大型店舗の店長などとも肩を並べた。また、その後オープンするイオンモールに入る福祉の店から、小倉さんのノウハウを知るために研修に訪れることもあった。

小倉さんは2008年に退職。現在は三重県電動車椅子サッカー協会代表としての運営や、著書『私もみんなの役に立ちたい【前向き障がい者】の頭の中』の普及活動、講演活動をしている。
最後に、困難を感じたときの向き合い方・乗り越え方を聞いた。
「自分自身でできる範囲の努力をすること。いろいろやってみて、できることを見つけたらそれを精一杯やること。あとはまわりの人に相談して力を借りることですかね。ひとりではできないことってたくさんありますよ」

インタビュー 小林 景子